
このところ、レコーディングに没頭。
新しいマイクも手に入れて、歌がとても歌いやすくなった。
マイクは、楽器のようだと思った。
弾きやすい楽器、いい音のする楽器が、プレイする時のそのプレイ自体に影響するのと同じように、マイクは、そのパフォーマンスにとっても影響する。
僕のスタジオ(ベッドルームとも言う。笑)は、高さ180cm横幅2m50cmの大きな窓がある。隣の家の大きな木から、冬は木漏れ日が、ちらちらと部屋に差す。これだけで、午後が幸せな気分にる。
歌を歌うにあたって、歌詞が必要。
が、今、プリンターが壊れている。
というわけで、タイプライターで打つことにする。
5分で打てるだろうと思っていた。が、実際は、1時間ほどかかった。1時間...。普段、コンピューターでタイプしているにも関わらず途中で、失敗する。失敗が重なると、今度は、緊張する。最後になればなるほど、緊張して....失敗する。
驚いた。
コンピューターに慣れ親しんだ僕は、いつの間にか修正出来ることがあたりまえになって、一瞬一瞬を大切に過ごすことを忘れているんではないかと、思えた。時間を節約するために使うテクノロジー。が、時間を感じることを希薄にしているように思えた。
音楽を創る上でも、同じことを感じる。いまや、音痴な歌でさえ、ボタンひとつで、ピッチが修正される。歌える限り歌った何本もの歌のトラックを切り刻んで、くっつけて、さも1回で歌ったように発表される。楽器でもそう。
やり直すことも、当たり前。
修正するのも当たり前。
歌の切り貼りは、僕が、レコードデビューした頃すでに、プロのスタジオでは当たり前だった。今のように簡単ではなかったけれど、トレーニングされたプロのエンジニアが、見事に切り貼りをやってのけた。今は、もう、誰もができる。
歌を歌うというような、時間を濃密に味わい、時にはエクスタシーを伴う神聖とさえ言えるような瞬間でさえ、その時間を曖昧に過ごしてしまう。
これが、今の、音楽。
テクノロジーによって持たされたものも大きいけれど、それによって失われるものも大きい。
そんなことをタイプライターから、感じた。
切り貼りなしで、修正なしで、
時間を濃密に味わった歌を歌おうと思う。