キツツキが窓をつつく音。目を覚ますと、バルコニーに残る雪にオレンジ色の朝日が射していた昨日の朝。
一日一日が、言葉通り矢のごとく、そして確実にひとつづつ過去の記憶へと変わって行く。ある時は、目の前のことに夢中になり、あるときは、未来の為の準備に費やされ、ある時は生きて行く上で避けられないことへと時間が費やされる。どんな時間だって、濃密にこの五感を使って内と外との辻褄を合わせながら感じそして動いている。 ぼーっとしている時だって、ぼーっとしているその行為にどっぷりだ。
仕事とは、求められていることが明確で、その要望に応えること、期待以上のものを差し出すことで喜ばれ、それはまた自分の喜びへと変わる。仕事が与えられる時点で、相手から自分を必要とされているという前提があり、その期待へと応えるべく胸を膨らませる。
12日、下北沢にて、2つのイベントに一人で参加した。全くタイプの違うパフォーマンスを計画。モナレコードでのライブは、ギター、声、ピアノ、フロアタム、コントラバス、を用意し、エフェクトを加えた即興演奏を。そして、夜は、アコースティックギター一本で、歌と向き合うことを。2つのステージを終えて、ミュージシャンとしてではなく、アーティストとしてステージに立つことを、改めて考えることになった。(ミュージシャンであっても、アーティストであるとは限らない)
僕にとっては、自分のステージは、お金を戴こうが、貰えまいが仕事ではない。会場にまで、足を運んでくれる人達は、また、偶然そこに居合わせた人達は、明確な要望、要求があって来てくれるのではない。むしろ想定外のこと、ミラクル、漠然と、なにか非日常的な時間を期待して足を運んでくれている。入場料はある意味、お布施のようなもの。神聖なもの。それを受け取る側のアーティストも托鉢を受ける僧侶のようなもの。今回の2つのライブを通して、前提として誰も求めていないこと、ある意味自分のエゴの部分を表現する上で、どういうふうにこれからミラクルを起こして、非日常を体験し、共有してもらえることが出来るのか、さらに真剣に考え繊細に感じることへの契機になった。正直なところ、ccoでのライブの後、もう、職業音楽家としてだけでやって行こうかと言う思いが頭をかすめるほどだった。が、朝日とともに、また、あの根拠のない自信は帰って来た。
そう、モナレコードでのこと。アーティストのお二人、鈴木さんと、kyoooさんに興味津々でステージを楽しみにしていた。が、2日間で、3時間の睡眠しかとれていなかった僕は、ずっとは立っていられず、途中から扉を半分開けた楽屋のソファに座り、適度にフィルターされた音に身を任せるようにしていた。kyoooさんのピアニシモな歌声とギターの音は、弱々しいがゆえの強さをもってステージ一番奥の、僕の特等席まで響いていた。下北沢の雑踏の音、換気扇の音、だれかの話声。全てが音楽の一部に変わっていた。最後から2曲目の曲だったと思う。突然、彼女のギターと歌に絡み付くように、バイオリンの音が聞こえて来た。かなりエキセントリックで美しいアレンジ。誰かが弾いているのかと、飛び出たが、誰も弾いてはいなかった。彼女の音楽は、水墨画のようだと思った。
そう、昨日は、阪神淡路大震災の日。
癒えることのない悲しみを抱いている人の上に、新たな幸いが降り注いでいますように。