ブログトップ

infected dream

idream.exblog.jp

パリ左岸のピアノ工房

b0060102_254285.jpg


家の近くにあるオーガニックカフェの本棚で見つけた本、”パリ左岸のピアノ工房”。そろそろ、スタジオに実家からピアノを持って来ようかと考えていた矢先。自然と、手が伸びた。

 パリに移り住んだアメリカ人の物書き。近所にある、いくつかのピアノの部品が綺麗に並べてあるだけの店に興味を抱き、中古のピアノを探しているという理由をたてに店の門を叩く。主人から、体よく断られ続けるうちにある日、奥の扉の向こう側に、何台ものピアノのある大きな部屋があることを知る。そこから、始まる、ピアノ工房の職人との話。

 まだ、読んでいる最中なのだが、とてもピアノを弾きたくなる。この本を読んだ後に弾くピアノは、きっと違う音に聞こえるに違いないと思えるほど、ピアノへの愛着や、歴史や、メカニカルなことなどが、詳細に書かれている。
 読み進める中で、ひとつ前々から不思議に思っていたことが、ひとつ解けた。

 モーツアルトが実際に、演奏していたころ、失神する女性がたくさんいたということを聞いたことがあるのだけれど、これは、ビートルズのライブで、女性が興奮のあまり失神したようなことと同じ。しかし、いくら素晴らしい演奏だとしても、失神するのか。少し、疑っていた。
 わかったことは、こうだ。その時代、ピアノが、出す音は、人々にとって、とてつもなく大きな音だったということ。ハープシコード(チェンバロ)から、ピアノへと発展して行った楽器。演奏家は、より大きな音を要求するようになってピアノは発展していったのだと言う。
 人々にとっては、今のサウンドシステムで、ダンスするのと同じくらい衝撃的であったのかもしれない。

 これは、どれだけ世界が静かだったかということ。人々の耳は、今の人の耳より、ずっとずっと敏感だった。車、電車、人混みの喧騒、ノイズが溢れている現代人の耳は、それらを受け入れるために、鈍くなっている。だから、それらをも越える音量でないと、人々は、快感を感じなくなっているのではないだろうか。あの頃の、ピアノの音は、"越えた音"だったのだ。

 夏に、湖のほとりでキャンプをした時。カリンバをポロポロと弾く音に、ギタレレ(ウクレレのような、小さなナイロン弦のギター)の音を乗せてみた。とてもとても、繊細に弾かないと、音が大きすぎてバランスが崩れた。
 テントの中で、眠りにつこうとした時、テントの外を歩く人の話声が聞こえた。なんとなくテントの回りを歩いているような気がして、不安になって外に出てみたが、だれもいない。湖の向こう岸を歩く人の灯りが見えた。話し声は、まるで、そばにいるように、こちらまで聞こえていた。普段、自分の過ごしている世界がどれだけ、ノイズに埋もれていることかと思い知らされた気がした。

 小さな小さな音で、奏でる音は、胸の奥底まで届くような気がした。

 僕らは、ノイズの嵐の中にいる。部屋の中だって、エアコンの音や、テレビの音、コンピュータのファンの音がする。

 もし、もっと静かな中で人と接することが出来たら、もっともっと、人のことを感じられるのではないかなと思う。言葉としての理解だけじゃなく、その言葉を乗せている音の中の心の動きみたいなものをも感じられるのではないかと思う。音楽も、もっともっと濃密に感じることができるだろう。

 経済も、生活も、情報も、なにかもかも増幅することが進歩だと信じて進んで来た。そして、増え過ぎて処理しきれなくなったものを無視するために鈍感になって行く。鈍感であるがゆえに、誤解や、すれ違いが生まれる。

 静けさを手入れるには、都会を離れればいいのだけれど、静けさのある都会は理想的だ。

 僕に出来ることは、なんだろう。
音を発する時、音圧で圧倒させるのではなく、ピアニシモを大事にした演奏をしたいと思う。
[PR]
by kkkr | 2007-11-30 02:06 | 音楽
<< 師 宇宙人のドラム >>